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チノ()は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンバーナーディーノ郡の都市。リバーサイド・サンバーナーディーノ都市圏の最西端に位置しており、チノバレー・フリーウェイ(カリフォルニア州道71号線)、ポモナ・フリーウェイ(カリフォルニア州道60号線)へのアクセスが容易である。 市の西側ではチノヒルズ、北側ではサンバーナーディーノ郡の未編入地域(モントクレアに近い)、北東でオンタリオ、南東でサンバーナーディーノ郡の未編入地域、南でリバーサイド郡の未編入地域とそれぞれ接している。2010年の国勢調査での人口は77,983人である。 チノ周辺は農業・酪農の拠点となっており、南カリフォルニアやアメリカ南西部での相当量の乳製品の需要に応えている。チノの恵まれた農業の歴史はスペイン統治時代に払い下げられたランチョ・サンタアナ・デル・チノまで遡る。この地域は果樹園、酪農、劣情に栽培された作物に特化していた。 ダウンタウンにはサンバーナーディーノ郡図書館の分館や、チャフィー大学のキャンパス、チノ市民劇場、チノ・ボクシングクラブ、毎週開かれる農作物市場などがある。市は「若者のための最良の町100傑」をこれまでに5回受賞している。プラド広域公園内にあるプラド・オリンピック射撃場では1984年ロサンゼルスオリンピックの射撃競技が開催された。 市内にはカリフォルニア男子刑務所、カリフォルニア女子刑務所の2か所の州刑務所と、ヒーマン・G・スターク少年院がある。 市内にあった払い下げられた土地はランチョ・サンタアナ・デル・チノと呼ばれていた。サンタアナは聖アンナのスペイン語での呼称だが、「チノ」の本来の意味にはさまざまな説がある。一説では、「チノ」は縮れ毛の人物または混血の人物を指し、この地域にあったネイティブアメリカンの集落の酋長ではないかとされる。 == 歴史 == 近代、チノの最初の住民はトングバ族であった。彼らはサンタアナ川流域のワピジャングナ(Wapijangna)とよばれる場所に住んでいた。1771年に建設されたサンガブリエル教会で洗礼を受けたワピジャングナの住民もいた。メキシコの独立が完了し、メキシコ政府のものとなるまでは、少なくとも名目上はスペインの王政が土地を獲得していた。 20数年後、メキシコ領アルタ・カリフォルニアの知事ホアン・バウティスタ・アルバラードはランチョ・サンタアナ・デル・チノの土地を名門ルーゴ家のアントニオ・マリア・ルーゴに譲渡した。さらに2年後、彼の相続者であるミッチェルトリーナ長官はルーゴの義理の息子のアイザック・ウィリアムスに3平方リーグの土地を譲渡した。 ウィリアムスは大量の馬・牛を保有しており、それを妬んだネイディブアメリカンのみならず、無節操な白人の襲撃を招いた。襲撃を行った白人の一人ジェームズ・ベックワースは、1840年にカワウソの猟師を装い、動物のいる場所を特定するためにランチョ・チノに滞在し、襲撃の首謀者であるユト族のワルカラに報告した。 米墨戦争初期、チノの戦いがウィリアムスの所有するランチョ・サンタアナ・デル・チノで繰り広げられた。戦いは連邦政府のために派遣されたモルモン大隊が到着する前に終結した。彼らはその代わりに農作物の収穫や製粉所の建設に従事した。 カリフォルニア・ゴールドラッシュが起こった期間、ランチョは短期滞在する旅人にとって人気があった。また、石炭もここで発見された。1850年、カリフォルニアが州に昇格し、私有地と公有地の分離が進められた。ウィリアムスは1869年にチノ・ランチョが特許されたと主張した。 リチャード・ガードがランチョの次の所有者となった。1887年から彼の土地は細かく区画され始めた。後に「タウン・オブ・チノ」となり、1910年に法人化され市となった。ここではテンサイ、トウモロコシ、アルファルファなどの作物が栽培されていた。 チノバレーは沖積平野の端部、山裾に位置しており、肥沃な表土が4フィートの深さにまで達している。このため、1890年代から20世紀半ばごろまで農業のメッカとなっていた。1900年代初頭において、テンサイは地域経済の重要な一部で、トウモロコシ(「チノコーン」として太平洋沿岸地域の至るところで売られていた)、桃、クルミ、トマト、ストロベリーがこれに続いていた。市の公式ロゴ、エンブレムには豊穣の角が描かれているのが特徴的である。 乳業は1950年代から1980年代にかけて繁栄を極めた。乳業に適したサンバーナーディーノ郡の南西端に多くのオランダ系家族が定住することを奨励し、産業の土台となった。チノの乳業は大規模で生産性が高く、アメリカで最も乳製品の生産が多いカリフォルニア州において最も乳製品の生産が多い自治体となった。 のどかな環境と田舎の趣があることから、ハリウッド映画では「中西部」の設定の撮影で人気がある場所である。アン=マーグレット、マイケル・パークスが出演した1960年代の映画『帰郷(Bus Riley's Back in Town)』、ジョアン・ウッドワードが出演した映画『七月の女(The Stripper)』などが撮影された。1960年代半ばのテレビ番組『頭上の敵機』では、チノ郊外の空港をイギリスの飛行場に作り替え、農地にかまぼこ型の兵舎が建てられた。 1970年代、チノはインランド・エンパイア最西端の郊外都市として発展した。現在の市の発展は、徐々に中産階級の性格を強めている。ヤギやニワトリのような家畜が多い地域だけでなく、工業地帯も多くある。2004年のFBIの犯罪白書によると、市の暴力犯罪率は人口1000人当たり3.6件で、アメリカの郊外部では典型的な数字である。また窃盗犯罪については全米平均より低い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チノ (カリフォルニア州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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